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HORIZON -Boundary-

’60年代半ばミクロネシのパラオ諸島(当時国連管理統治領・現パラオ共和国)に制作現場を選び5度の旅を試み、北端に位置するカヤンガル(Kayangel is)島の馬蹄環礁内に浮かぶ珊瑚州に仰向き、あくまでも深い群青の天空と対自していた。結果は写真表現に生きぬく結論には至らずじまいだったが、朧げながらも抽象(境界)概念の領域を凝視したであろう実感を瞬時だが認知できた。

削ぎ落とし、更に削ぎ落としシンプルを表現の信条とする。この’構造’を踏まえたうえで、視る(触る)こと叶わぬ対象(無限縁・抽象)の具現化を試みるとき、私はラピスラズリ(色)の天空(心に)に一条の円を描きその一隅(一片)を切りぬき撮る。 切り撮られた側、天空の無限縁(絶対)と切り撮ったひとひらの無限縁(相対)の境界は、たぶん無限縁抽象が出現すると仮定。この無限縁時空間論をあえて強辯し、我が写真論に置換するならば、写真表現は抽象をもって目的の到達点、即ち構造の真髄(上品)としたいのだ。

「写真(映像)はあくまでも二〜三次元の表現事物(者・事象)である」を前提として展示(写真表現は展示までを含む創作の相対概念)を試みるとき、無限縁境界具現化の決着として通常‘枠’(額)概念の処理がとられる。 無限縁の枠、切り撮ったひとひら(一辺・一隅)の内側つまり作品内に綴じ込められ付随する周縁は、即ち‘砌’(みぎり)なるものは切り取った一辺内に付随すべきなのか、無限縁時空(∞)総体側の切り残された無限縁時空内に付随残存するものなのか。

(1984年9月30日、筑摩書房より 森 惇 著 “意味の変容”が初版される。私の創作座標の原点にあったであろう“もやみ”が一夜にして明快に晴れ渡ったのだ。まさに座右の書との遭遇であった。)

HORIZON -Boundary-を理想の写真表現と想定(デジタル三次元空間に表現展示)してこの小文を進めたい。 写真家の私事(私の場合)としたうえで、二次元表現物の縁(額)概念を破棄する事としたい。シンプルな無限縁なる抽象概念のみの砌でありたい。提示したHORIZON -Boundary-(写真表現)に無限縁なる抽象の’砌’をこめて(内包)表現の相対↔︎絶対を試作してここに提示した。

もう1点、何故 -Boundary-(水平線)を右肩上りに複数で表現したのか。生理学的に答えは在るのであろうが1つ事例を提示すれば、黒板へ右利きの人がチョークで一本の白線を描くとする。何故か白線は版面に対しやや右肩上がりになってしまう、試して頂きたい。複数枚での表示の事由は、より水平(-Boundary-)認知を増幅できると考えた。Boxカメラを段違いに水平移動させ、より永い右肩上がりの -Boundary-(水平認知)を繋ぎ撮る技は写真家にとって冒険心を誘うことにも繋がった。

一辺を開放させ、囲みきらぬ無彩色の見切り‘砌’、理解戴けるだろうか。三次元空間<螺旋キューブ状(管径10m程)>の屋内空間的イメージ概念を想定したうえで、この空間は無彩色、半透明(昼光色・無特定光源)で明るく、漂う写真表現像は理想的に配置(レイアウト)され、影を持たぬ創作物体として浮遊させる。この時空間“HORIZON -Boundary-”を写真表現として是非に試みたい。

視る(触る)こと叶わぬ無限縁(-Boundary-)の境界‘構造’概念を写真表現でシンプルに表象する、表現者終末の使命感をメモした。 (参考文献・意味の変容、森 敦 筑摩書房 1984.09.30)

写真表現・新正 卓

HORIZON-Boundary-