黙示 −双家族−

裂け目としての沈黙

写真によってあらわにされた裂け目から浮かんでくるのは、もう一つの肖像(顔)である。これらの顔には社会的なみせかけも、個人的・心理的な障壁もない。しかし、これらの顔は、中国残留日本人たちのまなざしが写真を見る者に跳ね返って、見る者自身の視線の圧力となってもたらされたものではないだろうか。“見る/見られる(撮る/撮られる)”という関係性のなかで現れる、“時間(歴史)の肖像”。

この“見る/見られる”という視線の交換を、さらに強く感じさせるのが「双家族」である。「双家族」は肉親との再会を果たしながらも、何らかの事情によって、二つの国に引き裂かれながら生きなければならない家族を、それぞれの地で撮影し、「一対」として並べたものである。ここには、 二つの家族を永遠に結びつけたいという、写真家の願いが込められている。実際、「双家族」では『私は誰ですか』とはちがい、被写体の位置を中心からずらしたり、背景を大きく取り入れたりと、写真家の演出がほどこされている。写真家の願い(意図)が、より肖像写真に近いものとして撮ることを強いたといえるかもしれない。しかし、「双家族」を見る者は、『私は誰ですか』と同様の視線の圧力を感じざるを得ない。

「双家族」の中国残留日本人とその肉親のまなざしには、どこか戸惑いと不安のようなものが漂っている。それは写真に撮られることによって、歴史という公の場に晒されることの戸惑いと不安だろうか。おそらくそれぞれの家族には過去と現在に関わるさまざまな事情がある。再会を単純に喜べない事情さえあるかもしれない。彼らもまた深い過去からの闇の侵入を引き受けているのだ。写真家はそのまなざしの重さと対峙する。

二つの家族を結びつけたいという写真家の願いに応えてもらうためには、もう少し笑みを要求してもよかったかもしれない。再会の喜びを喚起させるための演出をほどこしてもよかったかもしれない。しかし、彼らのまなざしの重さが、写真家に行きすぎた演出を回避させる。「双家族」はいわゆる肖像写真の、一歩手前のぎりぎりのところで成立している写真ともいえるだろう。

この緊張感こそが見る者により強い視線の圧力を感じさせるのだ。それはまた写真家・新正卓自身の視線である(と同時にまた、写真を見る者の視線でもある)。彼らを撮る(見る)ことで、彼らの過去の裂け目をさらに押し広げ、晒してしまうという写真家(見る者)の残酷さ。しかし一方で、 その“裂け目としての沈黙”をあらわにすることが写真家の役割であるという使命感。そして、写真を見る者はその“裂け目としての沈黙”と対峙することになる。われわれはこの「双家族」のなかに新正卓が歴史と向き合う最も真摯な姿勢を見ると同時に、写真というメディウムがもっている始原的な力に気づかされる。 この始原的な力こそ、“見る/見られる(撮る/撮られる)”ことによってもたらされた“裂け目”にほかならない。
(「沈黙の叙法」からの抜粋 大嶋浩 )