THE SILENT LAND / Prison Camps in Siberia

辺見じゅん
佐渡の外海府に、シベリアが見えるという岬がある。
この岬に「賽の河原」と呼ばれるところがあり、いくつもの石積みの塔と、大小の地蔵が列をつくっている。土地の人たちはこの河原に来ると死者に会えるという。
二十年程前、私は賽の河原で一人の老女に会った。老女の息子はシベリアに抑留され、亡くなっていた。
「おら、兄(あん)ちゃんがシベリアで死んだと聞いたときもこの河原へ来たちゃ。こうやって地蔵さまに花こをあげ、石積んでると兄ちゃんに会える気がするのだちゃのォ」
老女の声が、今も外海府の冬の厳しい海鳴りと重なって思い出されてくる。私の故郷富山に住む叔母の夫もシベリアに連れて行かれ、その地で亡くなった。八十歳になる叔母は、
「父ちゃんな死んだシベリアに行きたいがやけど、わしな、まだ行けんちゃ。お迎えの日が来るまでいっぺん行きたいがや」
何度も繰り返すように語っている。語っているうちに涙があふれてくる。夫の死亡の知らせが届いたときは、口惜しいやら悲しいやらで床を叩き、ころげ廻って泣いた。しかし夫の残した三人の幼い子等を育てているうち涙も出なくなった。それが最近になって夫を思い出すたび涙が出てくる。まだ涙の出る場所が残っていたのかと思うそうだ。
昭和二十年八月十五日の敗戦で、旧満州、北朝鮮、樺太から極寒のシベリアに抑留された日本人は六十万人以上といわれている。そのうちの一割を超える六万人以上の人々が、望郷の思いを抱いたまま飢えと重労働の中で死んでいった。死者は白樺の木の根元に穴を掘って埋められたので「白樺のこやし」ともいわれ、死亡年月日はおろか氏名も記されなかった。
そうした死者たちの一人に、隠岐出身の山本幡男氏がいる。彼は昭和十九年夏に二等兵として召集され、四人の子等を新京に残して出征した。満鉄調査部にいたこと、敗戦の半年前にハルビン特務機関にいたことがソ連の国内法第五十八条第六項の「ソ連に対する謀略諜報行為」に当たるとされ、スパイ罪で二十五年の刑を受けたのだ。ソ連が自国の法律によって日本人を裁いた理不尽さは今日、指摘される通りである。しかも、シベリアには新京の電話交換手や大連のソ連領事館に勤めていた女性たちまで連行された。領事館で館員たちに日本語を教えていた女性は、昭和三十年までソ連に抑留されていたのである。
昭和二十九年の八月、山本勝男氏はハバロフスクの収容所で病死したが、仲間たちが白樺の木に秘かに死亡した日と名前を書いておいた。白樺は死者たちの墓標だった。
山本氏はスベルロフスクをはじめ転々としたが、収容所内で万葉集の会や句会を開いた。いつ帰国出来るかわからず、絶望的な気持に陥っていた日々、仲間たちに、「ぼくたちは必ずみんなで帰国しよう。その日まで美しい日本語を忘れないようにしたい」と常に語った。ハバロフスクの収容所で「アムール句会」を始めたのもその一つであった。
「山本さんが私たちに教えてくれたのは俳句だけではなかった。どんな逆境にいても大切なのは人間として誠実にいかに生きるかということでした」
昭和三十一年暮、ソ連地区からの最後の長期抑留者一千二十五名の一人として帰還した林軍四郎氏は、山本氏の俳句や短歌や詩を薬包紙に小さな字で写し、ズボンの縫目に隠して持ち帰り、遺族に届けている。
その人はまた、人間は「あちら側」か「こちら側」か、二つのうちのどちらかにいる。どちらの側に属するかはほんの僅かな偶然でしかないと訥弁で語っていた。「あちら側」とは、死んでいった者たちの世界であろう。「こちら側」に偶然生き残った者として、せめて死者のためにも一生懸命に生きていくことしかないとも言われた。
小さきをば子供と思ふ軒氷柱 幡男
シベリアでは冬になると氷点下三十度を超え、氷柱も鋭利な刃もののようになる。小さな氷柱を見つけ、その一つ一つに日本へ引き揚げた四人の子等の名をつけて呼んでいたのだろう。亡くなる寸前までソ連製の薄いザラ紙のノートに日本人としてどう生きるかを書き続けていた。むろんそのノートはソ連側に没収された。書いたものが見つかれば営倉送りや刑が加重される。山本氏の生き方を知るにつれ、よりよく生きることはまた、よく死ぬことではないかと思われてならない。
山本氏の遺書の中に、次のような言葉がある。
「日本民族こそは将来、東洋、西洋の文化を融合する唯一の媒介者、東洋のすぐれた道義の文化 ⸺ 人道主義を以て世界文化再建に寄与し得る唯一の民族である。この歴史的使命を片時も忘れてはならぬ」
シベリアの地で遙かに日本や家族を想いつつ祈願した「世界文化再建」の道は、今日の私たちの国の実状とはあまりにも隔たっている。彼の問いかけた命題はいまなお重いものに思える。
この遺書は、収容所の仲間たちにより「記憶」という想像を絶した手段によって遺族に届けられた。
記憶は、日本古来の文化の伝達法である。しかしまた、肉体や精神を通して記憶されたものが次代に引き継がれてこそ文化の大いなる力ともなりうるのだ。
このたびの新正卓氏の写真集『沈黙の大地』は、カメラを通してまさに記憶が文化であることを物語っているように思えた。
一九四五年の敗戦を新正氏が迎えたのは、旧満州の佳木斯(チャムス)であった。九歳のときだったという。敗戦後二年を経て大陸から山形県酒田市の祖父の実家に辿りついた。その新正氏が「残留孤児」になっていたかもしれぬ自らを顧みる衝動に突き動かされて幼年期の旧満州での記憶を掘り起こしていったことが、この写真集を上梓した要因であったろう。その一つに、可愛がってくれた近所の青年たちが或る日、ソ連軍の侵攻と共に町から忽然と姿を消してしまう出来事があった。後にその青年たちがシベリアへ抑留されたことを知った。
本書が出版された一九九五年は、敗戦から半世紀を迎える年である。だが、「もう半世紀」ではなく、「まだ半世紀」でしかないことを私たちは肝に銘じるべきではないだろうか。私たちの国が、戦場に或いはシベリアの凍土に死んでいった無数の死者たちを土台に成り立っていることを忘却してはならない。戦争体験の「記憶」が歳月と共に失われつつある今日こそ、一人の写真家が消えてしまった日本人を捜し出すもう一つの旅を掘り起こした意義は深く大きい。その旅を通して聴こえてくる大地や死者たちの声に、私たちは静かに耳を傾け、真向うことが大切に思えてくるからである。
(へんみ じゅん 作家)