私は誰ですか

1092′s Who am I

一千九十二人の肖像 佐江衆一

このふた月、それは座右の書になった。ほぼ新開半裁の大判で、厚さ五センチ、ずっしり持ち重りするだけでなく、心の奥深くへ迫ってくる重さだ。一頁に一人ずつ、一千九十二人の男女モノクロ半身像が、正面をじっと見つめて並んでいる。『私は誰ですか』と題された、中国残留日本人孤児の肖像写真集である。
 撮影者は新正卓氏。彼とインド旅行で一緒に仕事をしたのは、十年ほど前だった。その頃、新正氏はファッション専門のコマーシャルフォトから社会的テーマの地道なきびしい仕事に変った時期だった。その後、一九八五年、数年にわたって撮りつづけた南米移民一世の肖像『遥かなる祖国』の写真展を開き写真集を出版、土門拳賞を受けたのだが、八一年三月、第一次中国残留孤児訪日のときから、この人たちの写真を撮りはじめていた。昭和十一年生れの彼は、九歳のとき旧北満で敗戦をむかえ、悲惨な逃避行のなかで残留孤児になったかもしれない経験をもつだけでなく、母親がわりの女性が行方不明になり、戦後三十余年ぶりに突然便りがあり再会したという。「このとき、写真の在り方を探く考えなおした」と、ガンジス川の畔できいた。華やかなファッション写真家と決別した彼は、自分の人生を重ねるようにして、中国残留日本人孤児が訪日するたびに調査会場へ大型カメラを持ち込み、今年八〇年二月に祖国を訪れた第二十次の人びとまで、九年間にわたって肖像写真を撮りつづけた。
 その間、身元が判明し肉親と対面できたのは六百六人で、実に六四パーセントの孤児たちは肉親の名乗りはなく、日本人としての名もわからず、出生の根を絶たれたままむなしく帰国した。『私は誰ですか』は、その人びとなのである。
 四十代・五十代のどの顔も、肉親と別れた昭和二十年敗戦直後のあの場所あの瞬間に佇むようにして、ひたすら肉親をさがし悲しげにしかし希望にみちて、叫ぶのではなく静かに語りかけている。一時的なテレビ画面や新聞掲載の小さな写真とちがって、その表情に微細な特徴がとらえられ、歴史の忘却の時間を超えて生まなましい人間の姿で迫ってくる。
 しかし、この写真集の出版は容易ではなかった。政府がつくって当然だと思うが、出版委員会が全国から費用を募り、なお不足ながらボランティアの協力で実現したという。この八月から全国の市町村役場などに置かれ、肉親さがしの「台帳」として誰もが見られるようになった。私が机上に置いて毎日対面してもその手助けにはならないけれども、引きよせられて頁をくってしまい、一人一人から眼を離すことができない。
 胸の名札に「劉玉香」とある女性。髪がやや薄くなっている彼女は、右手に幼女の小さな写真をかかげ、白い歯をのぞかせて微笑みがちに立っている。訪日のために急いで新調したらしい黒っぽいスーツ姿だが、袖を五センチも折っているのは寸法が長すぎるからだろう。「二〇年八月時点での推定年齢 四歳。血液型 B型。離別した地点 北安省綴授県。離別した年月日二〇年一〇月頃、日本名=不明。家族構成=父、母、兄。父母、家族の職業 開拓団。家族といた頃の生活状況=不明。離別した時の状況、兄と思われる男の子の手を引いた母に背負われ、綏梭県の駅に近い養父劉春芳の家まで行き、預けられた。その時、青いチャンチャンコを着ていた。その後、母が七~八歳の男の子を連れて養家に来たが会えなかった」
記録はこれだけである。
 残留孤児は満蒙開拓団として送り出された人びとの子供が多く、彼女もその一人だが、当時推定四歳の彼女は自分の日本名も両親の名も覚えていない。欄外に「手に持っている写真は九歳当時のもの」とあるから、養家で撮ったのだろう。古ぼけて色褪せ、手にしただけで粉々になってしまいそうに脆く小さいが、ふっくらとした頬の少女で、両親や兄が見れば「アッ、◯◯ちゃんだ!」と叫ぶ写真だ。そのあどけない面ざしが、五十歳に近い劉玉香さんの笑顔のなかから二重映しに浮かびあがってくる……。
 譚永福さん。彼も黒っぽい上衣の袖を折っている。男物ではなく女性用の仕立てのようである。大陸の大地から顔をあげたような土臭い表情で、鼻下に薄く髭がのびている。敗戦時の推定年齢一歳の彼は、日本名、父母の職業、家族構成、家族といた時の生活状況、すべて「不明」とある。身体的特徴として「眉間にほくろが二つある」。「二一年一〇月、母が、吟爾浜市南崗木介街の養父母の家(ロシア風の建物)で、養母趨羨挙に預けた」  彼の記録もこれだけだ。幼児の頃の写真も手がかりになる品も何一つ持ってはいない。四十を幾つか過ぎた男が、年齢よりも老けた皺を刻み、節くれた手を垂れて緊張ぎみにカメラを見ている……。
 思い出す。私自身のことをである。太平洋戦争の敗色が濃くなった昭和十九年九月、私は家族と近くの写真館に行き写真を撮った。国民学校五年生だった私は、東京の空襲を逃れ両親姉妹と別れて、東北の小さな町へ学童集団疎開をしたのだが、その数日前だった。二度と生きて会えぬかもしれないと両親は覚悟して、記念写真を撮ったのである。近所の人びとがみなそうしていた。幸い私の家族は翌年三月十日の東京大空襲に生きのび、敗戦後私は両親姉妹と再会できたが、戦災孤児になった友人は、そのときの写真を手がかりに両親の消息をたずねて、戦後しばらく焼跡をさまよった。
 人生の特別の日に、緊張ぎみに正面をむいた一葉の写真。今日、誰もがカメラを持ち写真を撮る行為は日常茶飯事だけれども、特別の日の一見おもしろみのない肖像写真は、写真という芸術の原点といえる。目然な表情をさりげなくとらえた動きのある写真よりも、よそゆきでスタティクであるゆえにかえって、すぐには言葉にならぬ人生の言葉を深いところから静かに語りかけてくる。
 この一千九十二人の肖像は、戦後四十五年をへて戦争の悲惨さがまだ終っていない長い歳月を刻みながら、「私は誰ですか」と人間としての存在証明を、肉親ばかりか戦争を忘れがちな日本人のすべてに求めている。九年間に及ぶ訪日調査が一区切りつき、残留孤児問題が報道から消えてゆくこれから、いっそうこの事実を忘却することはできない。
 何も映っていない白い背景に、わが子として育てた中国人養父母や家族、その中国の山河、そして、まだ訪日できない孤児たちの父となり母となった姿も立ち上ってくる。肉親と再会させてあげたいが、ここにいる人びとの多くはおそらく、自己のルーツを証明できないまま中国人として生涯を終るかもしれない。わかっていても名乗り出ない肉親もいるという複雑な奥の深さを思えばなおさらに、その肖像は瞬間の表情でありながら終ることのない戦争の一生をそれぞれに語りかけてくる。私は座右の書として一生かかっても読みつくせないだろう。(了)
(新潮 1990年11月号・窓 さえしゅういち